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2014年12月13日
作家:エベレット・ジョン
翻訳者:テイラー千恵
1954年に統一教会を創設した有力な宗教のリーダーである文鮮明氏が現れた。生涯を通じて、精神的かつ、温厚な心で人々に奉仕し、偉大な宗教の指導者の座を引退しました。多くの偉大な宗教家のように生涯議論の的になりました。彼の教えは、聖書の教えを否定するものであるとキリスト教者に言われています。多くのものが変化を恐れ、新しいものを非難するように。この論文は彼の本、原理講論の中の文氏の教えを分析するものである。特に、第二章の堕落論において、これらの教えが原理であるのか、まったくの邪教であるのかを決定づけるものでしょう。そしてさらに、そのような論証または、邪教がどんな社会的影響をもたらすのでしょうか。
私は誤解されたくないので、どうしてこのようなことをしているのか、説明します。なぜこの議論を持ち出したかという理由として、よい人生を生きるために、徳と真実を知るべきだからです。健康であるため野菜はいいが、タバコはよくない。ですから精神的に健康であるため、神の望むものを知るべきです。文鮮明氏は原理講論を読者を精神的に健康にするために書いたのではありませんか。このような精神の教えとその影響に関心があるゆえ、この議論を始めたのです。これらの教えを議論するにあたり、議論の基礎のほうを探らないとなりません。神の言葉の議論の前に否定できない真実を明らかにすることが、確実な論議になります。
聖書が神の偽りのない言葉である。
原理講論の中で、文氏は聖書を頻繁に引用しています。なぜなら、それが神の言葉であると理解しているからです。第一章、第一節だけで3度も引用し、さらに3度言及しています。ほんの中では、幾度となく聖書を引用しています。ですから、聖書は真実であるということは明白であり、聖書が間違いであるという理由はない。さらに、聖書は真実であるというだけでなく、権威のある書物でもある。ですからイエスは弟子や反撃者に聖書を引用して答えたのである(マシューの福音書 4:4、4:7、4:10、21:13、26:24、26:31)。文氏はイエスは神の創造原理をすべて理解したものである。完全に到達した者と書いています。これが事実であれば、イエスは神や神の教えを知り、さらに聖書は神の言葉であるということが事実である。
さらに聖書は全面的に真実であり、神は万能でならなければならない。どのようなことがあっても聖書の書き換えや韻文の校正も真実に合致しなければならない。同様に全知しているのので、完璧な聖典を作るのに必要となる歴史の動きをどう作るかを正確に知っていた。このように聖書が存在しているように、この聖典は理想的であるといえるでしょう。神による、いくつかの聖典は真実でいくつかは不実であるというのはよくありません。理想的な神、全能であり(創世記35:11、マタイ19:26)全知している(1ヨハネ3:20)者が彼の教えに偽りを許すことはないでしょう(民数記23:19)。これは永遠に生き持続する聖典であり(1ペテロ1:25)変化や廃止されることはできない。
聖書が真実で神聖であると理解することが、この内容を論じるうえで極めて重要である。もし聖書が神の言葉でないなら、その真実の意味は我々の欲しいままになるでしょう。さらに、もし聖書が神の言葉でないなら、不完全な人間にとって、神の言葉がなんであるかを理解することはできないでしょう。その逆に、私達の信じたい事よりも、神の教えに頼れば聖書は力強い道具になるでしょう。「神様の言葉は生きていて、力に溢れています。それは、鋭い刃物みたいに切れ味がよく、心の奥深くに潜んでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私達の赤裸々すがたをさらけ出します。」(へブル4:12)。聖書をあなたの武器にし、あなたは間違った教えを拒否し、確実な教えをより強く確認する権限を与えられます。そしてその教えをより強く確立し、文氏の神聖な言葉に充ててみましょう。まず最初の議題は、
アダムとエバの結婚
始めにエバはアダムの妻になるために創られた。エバはアダムが堕落する前にも後にもアダムの妻であると言及されています(創2:24、2:25、3:8、3:12、3:17、3:20、3:21)。アダムは堕落する前に3:6の中と後3:16にエバの夫であると言及されています。ですから文氏には不運な事故になりました。彼の教えは「もし彼らが夫婦となって一体となったならば。。。」「アダムとエバが夫婦にならなければならないのである。」ここに「ならなければならない」ではなく始めから疑いもなく夫婦であったのである。現代のカップルが結婚する形になったように。「ですから、人は両親から離れて、妻と一体となるのです。」もはや二人でなく一人なのです」(創2:24)(マルコ10:7-8)。
そうでなければ、神はアダムとエバが結婚する前に同棲し、罪の中で生きるために創造されたということになります。これが理想的で慈悲深い神がすることでしょうか?聖書を読むことで私達は神を学びます。アダムとエバが創造されたことを読んだ時、神の特徴を学びます。ですから、聖書が本当に言っていることを理解することが重要です。でないと、神が本当に何であるか間違った考えを持つことになります。今まであまり深く考えずに聖書を読んでいたが、原理講論を学ぶことで聖書を深く学ぶ事を強要されて幸せだと言えます。これは良い知らせではありませんか?
エデンの園の場所
文氏の書くエデンの園:
エデンの園とはアダムとエバが創造された、あの局限地域をいうのではなく、地球全体を意味するのである。もしエデンの園を人間始祖の創造された、ある限定された地域だけを指して言うのだとすれば、地に満ちるほどの生めよ殖えよ言われた神の祝福のみ言によって、繁殖するであろう数多くの人類が、いったいどうしたらその狭いところにみな住むことができるのであろうか(原理講論2.3)。
このような質問には確かに、聖書を使って答えられます。聖書はアダムがエデンの園に、閉じ込められたとは言っていません。創世記2:15の中で「神様は人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました」と言っています。しかし、神はアダムの意に反し強制したとは言っていません。文氏によると、「自由意思による、自由行動は善の結果のみをもたらすようになる」ということから、アダムのような、善の創造物はエデンの園に自ら住んだのです。または言い換えるともしあなたのやる気が良いものであれば良いことだけをしようとする。ですから、良い結果だけを生むことになる。このことによりアダムにはそこが一番良い場所であったから住んだのであり、強要されたのではない。創世記1:28に「地にみちよ、地を従わせよ」と神が言ったように、強要されたとは言えない。ですから人類が永遠にその地に残ると言ったという意味ではない。しかし、エデンの園とは本当の場所であったのでしょうか。はい。なぜそう分かるのでしょうか。なぜなら、前述した神の真の言葉を載せた聖書がそう言っているからです。創世記2:10-14に、
さて、エデンの地からは一つの川が流れ出て園を潤し、それはやがて、四つの流れに分かれるのでした。その一つ、ピション川は、ハビラ地方全域を蛇行していました。第二の川はギホンと呼ばれ、クシュの全域を流れる川です。第三がティグリス川で、アシュㇽの町の東側を流れていました。そして第四がユーフラテス川です。
クシュはアフリカにある、実在の地です。アシュㇽは中東にある実在の地です。ユーフラテス川も同じように実在の川です。そして以下も続きます。別名は時代の中で失われますが、現代名を推定できます。たとえばハビラは現代のきっとサウジアラビア。ユーフラテスは象徴される川ではなく現代のイラクを流れる実在の川です。聖書はエデンの園は中東のどこかにいちすると明言しています。エデンの園が全地球の象徴であるならば、いくつかの理由により間違っています。
もしエデンの園が、場所ではなく理想の環境であるならばアダムとエバが堕落したときに埋没したであろう。創世記3:6に果実を食べたとあり、3:7に堕落したことを発見したとあり。3:8で「神様が園の中を歩いておられる気配がした。」とあります。3:23にはアダムと話したあと、「主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が創られたその土を耕させた」とあります。その後3:24で「こうして人を追放すると、エデンの園の東に炎の剣にを置き、力ある天使とともに命の木を守らせました」もしエデンの園が場所ではなく、理想の地であり、罪のあとにも存在するなら、理想の地に罪が存在すると言うことになり、神の計画は欠陥があるということでしょう。またアダムの行動が、堕落を招いたのではない。なぜなら彼は神が追い出すまで(理想の地)にいたからです。これはアダムが理想の地に罪を犯したにもかかわらず、いたということです。ゆえに彼は罪であり、理想であるということです。これは明らかに反対といえるでしょう、そしてもし神がアダムとエバを理想の環境からおいだして、力ある天使を東の番人にしたとして、何を意味するのでしょうか?東は何をいみするのでしょう?仏教の8つの教えを守る事で到達できる理想の入り口のしるしでしょうか?それともそれに似たものでしょうか?世界が理想的であるがその世界に生きていない。そして、可能性として、もしエデンの園がすべての地球全域をあわらすなら、アダムとエバは地球から追い出されたということです。ならば人類が他からきて、地球は宇宙人の世界ということに直面するのです。いいえ。そのような事はありえません。
それから全地球はアダムが創られる前はよかったではないですか。創世記2:15に神がアダムを園に動かしたと書いています。これはアダムはもともとそこにいなかったということです。彼は園の外で創られたということです。もう一度いいますが、もし園が実在の場所なら何も問題ないのです。神は彼をそこに動かしという意味だけです。しかし、もし園が象徴であれな、どう意味しますか?神がアダムを善の外で創り、アダムを堕落者として、そして、善に上げて園の中に移したといえます。神がアダムを堕落者とし、アダムがもともと欠陥と知りながら、エバの誘惑を拒否し、園の中で理想的に振る舞う事を期待したと言わざる負えない。そうすれば神が我々に、失敗させようとしたか、神が無能であると完結せざるおえない。
さらに創世記2:9に神が「園の中央には、命の木と善悪を判断する力のつく良心の木とがありました。」と書いています。これは神がアダムを創ったあと(2:7)エバを創る前(2:22)に木を創ったと読めます。もし園が地理上の場所であり、木とい物質が地上に植えられたといえばつじつまが合います。もし園が象徴であれば、これは問題を定義します。もしこの木が理想的なアダムと理想的なエバを象徴すれば、その木は罪の後にも実在したといえます。それならなぜアダムとエバは追い出されたのでしょう。それに神自身の中心にいい園をおきませんか。なぜ神が園を人類を中心に置きますか。とくに人類は理想的で成熟していないのに。文氏は善悪の木は理想的なエバを、果実は彼女の愛情を象徴していると言っています。しかし彼女が理想でないなら、木は存在しない。果実も生まない。なのでその果実を食べることはできない。もし木の生命が理想なアダムを象徴するなら、同様になり得ないし、実を食べることもない。アダムが実を食べることをさける理由ない。それに慈悲深い神がなぜ理想的になることを止めるでしょうか。これは否定を否定することです。
これは文氏や信者を攻撃するために書いていないし、私が偉いと言っているのではありません。真実をみなさんに信じてもらいたいから浮き彫りにしているのです。神の教えを中途半場に知ることは誰にもよくないでしょう。しかし真実を自分自身だけで持ちたくないのです。神の愛を受け他者と共有したいのです。もしこのようなことを書いて怒らせてしまったらすいません。しかし愛情から言っているのです。2ティモシー4:2「過ちをおかしている教会員には、忠告して、正しい道に引き戻してやりなさい。そして、善を行うよう励まし、たゆまず神さまの言葉を教えつづけなさい。」自分が成功しているといいですが。
ところでここでは二つの違う聖書を使っています。オリジナルに誠実な翻訳、へブル、ギリシャ版をつかっています。
アダムとエバは大人として創られた
以下が果実の前のアダムの人生の出来事です。
- 神は地に水をまく(創世記2:6)
- アダムが地ほこりから創られた (創2:7)
- 東の園に植えられた(創2:8、15)
- 果実の食べ方を教えられる (創2:16-17)
- 動物を名付ける (2:19-20)
- あばら骨を取るために深い眠りにつく (2:21)
- 他の人間が与えられる (2:22) 女性と呼んだ(2:23)
- 合体、結婚を唱える (2:24)
- 妻と全裸で恥じない (2:25)
文氏によるとアダムとエバは子供として創造され、エデンの園で育ち大人になったと信じています。これは事実ではありません。説明のためにエバから始めましょう。2:21にエバはアダムのあばら骨から創られたといわれています。彼のあばら骨がエバの胴体の中にあるとし、同じサイズの体であったといえます。もしアダムが子供であるなら、あばら骨があうようにエバも子供であるでしょう。もしアダムが大人であったなら、アダムの骨が大きすぎないように、エバも大人であるでしょう。エバが創られたとき、二人は子供同士であったか、大人同士であったかとなります。アダムは大人でしたか?
エバがアダムに連れてこられた時、2:23-24「まさに私の半身です。 そうだ、『男』から造ったのだから、『女』と呼ぶことにしますよ(一種の語呂合わせ。ヘブル語では男をイーシュ、女をイシャーと言う)。」人が両親のもとを離れて妻と結ばれ、二人が一体となるのは、こうした背景があるからです」。「מֵאִ֖ישׁ」の意味は「 大人の男」で、「אִשָּׁ֔ה」の意味は「大人の女」です。この時点では両者は大人であった。エバは大人のアダムの相手になるように創られた。伝統的な結婚の形は知的な大人であるうえで成立することを確立したのです。人が両親を離れて妻と結ばれるなどというのは空想的発想であると言える。アダムは人類で最初の人間なのですから、両親がいないのです。こどもが成長し、結婚するには大人である必要がある。もしアダムが子供〈最初の人間〉であったなら、このことを理解できなかったでしょう。またこの文章では、アダムが子供を授かり子孫を増やすことができると知っていたことを示しています。ですから、彼がこどもではないことが分かり予知できます。
げんにアダムのすべての行動に大人であることを示唆させています。園に神が置いた後、神がアダムに動物に名前をつけさせました。聖書にアダムに助手が必要で、神がアダムのためにつくるといっています。(2:18)(アダムがさみしくなると思う前に神は必要性を悟り行動したのはなんとすばらしいことでしょう。聖書があなたに神とはどんなものかを教えていると理解してもらえますか。)それから神はアダムに名付けさせるために地と空にいるすべての動物をもってきました。しかし、助手は見つかりませんでした。(2:19-20)だから神はもう一人人間を創ったのです。(2:21)これはアダムが、動物が与えるのより、より複雑な仲間付き合いをする知能能力があったと言っています。そして動物に合った名前を付けるほど成熟していたといえます。私は子供が適切な分類学者になるとは思えません。それからどのくらいの過程に時間がかかったのでしょう。アダムにとって、動物に名をつけるには生まれて大人になるまで長い時間がかかったでしょう。その昔、リンナエウスの学名の前は蛾の種類犬の種の違いを見極める必要はなく、現に現在の200種類以上の犬はオオカミの派生である。アダムはオオカミとなづけ、次の種にうつればいいのです。僕の頭では、昔のすべての動物を名付けるのに1,2日でできたと思いますがそれは小さな問題です。
アダムが動物を名付ける前、そして、エバが創られる前に神は善と悪の木の実を食べてはいけないと言いました。(2:17)アダムは死という難解な概念をどのように理解したのでしょう。それまでの理想的で死などない世界にいて。大人であったからでしょう。すべての行動に灰から大人の男が創られたと示唆しています。そして、神の感覚、理由知力により寄付された。死、家族、不従、楽園など十分理解できない子供ではない。すべては、早く起こっています。アダムが創られ、園に置かれ、動物を与えられ、妻と会い、園を追われる。なぜ園を追われる前に短い期間しかいなかったと知る事ができるか。なぜなら、果実を食べる3:20後までエバと名付けなかったからです。もしアダムとエバが一緒に育っていたなら、その間なんと呼んでいたのでしょう。「彼女」それとも「あなた」仲間としてはいい名前とは言えないでしょう。動物に名前を付けたのですから、アダムが彼女に名前をつけるのが遅くかかったとはいえないでしょう。名前を付けるとの説はありませんが、堕落までエバという名前をつけていません。それは彼らがそこに何年と長くいなかったからでしょう。その短い期間というのはなぜエバが蛇にはなしたとき忠告されなかったのか説明できます。蛇が話をできないのはあなたも私も知るところです。もしエバが園に長い間いたら、エバも知りました。
悲しいことに、原理講論のこの章の、アダムが未成熟であるということは、事実ではない、仮説の上に定義されています。文氏は「アダムが堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性になるということでなければならない」と書いていますが、我々はアダムは神により善と知力を持った大人として、創られたと知っています。彼が堕落したことが未成熟であるという意味ではない。反対に神がアダムをれっきとした素晴らしい大人として創ったため、堕落できる能力があったという意味でである。動物に罪を犯す能力はない。神は動物を人間ほどに創っていないのです。
文氏の堕落の解釈は、エバが成熟する前に果実を食べ、それは愛の象徴であるとしています。かなしいですが、初めにエバが大人として、創られたときからこの解釈は出来上がらないのです。アダムと愛を経験してはいけなかったにせよ、神はエバに「地に増え広がり、大地を支配せよ」といいませんでした(創1:28)。そして、エバが成熟したあとに子を生む予定である、などと言わないでください、なぜなら、神はアダムとエバが理想に到達できたときにだけとは意図していないからです。もしそうだとしたら、神はノアと彼の子孫と聖約をかわさなかったでしょう。しかし、神はノアに動物の所有権を再確認させ、アダムの時代のときよりもさらに動物は人間を恐れるよう、そして、食用として適応するようにしたのです(創9:2-3)。ノアの子供たちは成熟し、子を創るまで食事をとらなかったのでしょうか。もちろん違います、彼らには所有権があったのです。ノアの聖約は三つをすぐに受けると言っています。もし堕落がアダムとエバが所有権をもたないと意味するなら、我々は食物連鎖の頂点には立っていないし、動物より高位にたっていないでしょう。なぜ旧約聖書が我々に動物をいけにえにさせると命じたのでしょう(レビ記23:19)。もし動物への所有権がなければ、動物と同等であるとするなら、動物を殺すことは殺人となるでしょう(出エジプト記20:13)。もしわれらが所有権を持たないのなら、なぜ神はアダムに動物を名付けさせたのでしょう。これはわれらが完璧でなくとも、神の与えてくださった所有権を持っているということが明らかです。ですから、三つの恩恵は先に完了するという意味ではないのです。これらは神の一般的な恩恵なのです。神の摂理は条件的ではないのです。
次に進む前に個人的なことをみなさんと共有させてください。私が原理講論について懸念をいうと、「あなたが信じようと信じまいと、それはいいです。しかし、ただ聞いて、祈り神に言わせてください。」と言われます。そのような温かい返事はありがたいのですが、聞くだけではもの足りないのです。神の伝えをみなさんと共有することは大切です。神の見方は、との評に神に仕えるかで変わるでしょう。もし間違った考えを持っているなら、あなたの善の能力は限られるでしょう。ですから私はこのことに言及しているのです。もしあなたが、100+100=199と信じて、人生に影響がないと思っているかもしれません。もし設計者が間違えて厚板を切りすぎたり、乗せすぎたりして、船が漏れてきたら?もし199が200でなく、船が沈んだら。船長に泳いでいって、「お水でもいかがですか?」と捧ますか。おかしいでしょう。現実を厳密に把握することはとても大切なのです。なぜなら、よい心構えがなにか、良いものをうみだすこができないからです。
果実が姦淫の象徴
不運なことに、文氏はアダムとエバの結婚と成熟を間違えただけでなく、他の行動も間違って理解しています。
ある信徒たちは、神がそのみ言に対して、人間が従順であるかどうかをためすために善悪を知る木の果実をそうぞうし、それをたべてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死をともなうような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底かんがえることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果実をとって食べる日には、必ず死ぬであろうといわれたみ言のように、それを食べる時には死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず、彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが、食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。それゆえに、善悪を知る木の果実は何かの物質ではなく、生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何物かであるに相違ない。(堕落論1.1)
文氏はアダムとエバが理性なく行動することが信じられなかったのです。すべての人間が理性なく行動しているにもかかわらず。ですから、彼はより彼の考えに結びつくために違う種類の出来事をみつけたように見えます。彼の理由というのは、ほかに食べ物があったのに、エバはより魅力的なものを食べたからだと。悪魔がエバと性交したという完結に至った。そしてユダ書1:6-7を使って弁護しています。
「主は、自分たちの地位を守ろうとはせずそのおるべきところを捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗闇の中に閉じ込めておかれた。7ソドム、ゴラモも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々のみせしめにされている。」
彼はそして、「我々は天使が姦淫によって、堕落したという事実を知る事が出来るのである。」と締めくくりました。かなしいですが、これは正しい結末ではない。この2つの出来事はバラバラに載せられてます。ユダ書1:5では、「あなたがたはみな、十分にしっていることではあるが、主が民をエジプトの地から救い出して、後、不信仰な、者を滅ぼされたことを思い起こしてもらいたい」ユダヤ人の罪は不利性ではない、不信仰であった。ユダ書のこの部分には3つの例があげられている。ユダヤ人の不信仰(1:5)、天使の反乱(1:6)、ソドム人の欲望(1:7)。この三つの節は神が罪を犯したこの3つのグループを滅ぼされたと言っています。私は文氏がこのことを知っておきながら、悪魔がソドム人と全く同じ罪をおかしたと見せかけるために、節のある部分を抜き出して見せたと強く疑います。2ピーター2、にいくつか他の例があります。間違った預言者の否定(2:3)、ノアに対する罪の言葉(2:5)。ここに5つの関係のない罪があります。それはこの姦淫の解釈が無効であると意味します。もしこの解釈が正しく、悪魔がエバと姦淫にあったために追い出されたのであれば、他の何億という悪魔はどうするでしょう。エバを輪姦したのでしょうか。それとも順番にでしょうか。
この間違った考えのもと、文氏は園で悪魔がエバを性交に誘惑したと言っています。これはありえない行動である。天使に性行為がないのと同じように。死後の世界での結婚についての質問についてマタイ22:30でイエスがこう言っています。「復活の時には、結婚などというものはありません。みんなが天の使いのようになるのです」天使は結婚しないし、子供を残す能力もありません。聖書のどこにも天使に性器があるとは言及していません。何人かの人はノアの時代、天使が人間と交配したと信じる人がいますし、この天使を、「神の子たち」とよんでいます(創6:2)。これは事実ではありません。神は天使を神の子と一度もよんでいないから(へブル1:5)。この節は人間をさしています。
それだけではなく、不道徳な理由で悪魔がなぜ人間と近づきたがるのでしょう?悪魔は人間が嫌いです。我々は拒絶されているのです。人間は神の象徴です(創1:27)。悪魔が人間と性交するということは神の作品を崇めるということです。悪魔が同時に神に反し神の好みの物と性交すると言うことがありえません。聖書のどこにも悪魔が誰かが、誰かを性的に魅了したという事実はありません。悪魔が我々を性的に魅了したとはいえるでしょうか。しかし、人間同士であって、悪魔とではありません。
文氏は、この禁断の果実が禁断の愛の象徴であることや、人間がこの性的事実の子孫であることを弁護するためヨハネ8:44のイエスに言及しています。
「あなた方の父は悪魔です、悪魔の子が、悪魔の悪い行いを喜んでまねても不思議ではありません。」
これは残念ですが、間違いで、イエスはその時、パリサイ人だけに話していたのです。罪をおかすものすべての者は血統や、遺伝ではなくそれをまねるものである。1ヨハネ3:10がこう言っているからです。「神様の子どもと悪魔の仲間をはっきり見分けることができます。罪の生活をおくり、兄弟であるクリスチャンを愛さないものは、自分から神様の家族ではないと証明しているようなものです」。主の御名呼び求めるものや神に仕えるものは、神の子である。神の子になるときに新しい体を受け取るのではありません。同じDNAをもっているのです。ですから、我々は神や悪魔の血統ではないのです。イエスはパリサイ人を「地獄の子」(マタイ23:15)、「毒麦」(13:38)、「蝮の子」(12:34)と呼んでいます。これは比喩的な言葉です。話言葉はしばしばそうです。おかしいのは、文氏が我々に果実は厳密にやくさなくてもよいと言いながら、このイエスの会話を厳密に訳しているということです。これを言及すると、聖書を文字通り、受け止めなくてよいが、自分の意見を聖書を文字通り使って弁護しているということです。
事実聖書のなかに象徴というものは一つもありません。モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させたことは象徴ですか?聖書がダレイオスがイスラエル人の信仰の自由を許可した時は象徴ですか?聖書がイエスがティベリウス時代に生きていたということは象徴ですか?いいえ。創世記の歴史的な事実も同じではありませんか?個人の都合のいい思いであるだけで、聖書が象徴である理由にはなりません。
もし禁断の果実が象徴であるなら、科の果実は何を象徴しているのでしょうか?神はアダムとエバに善悪の知識の木の果実以外はどの木の果実も食べて良いと言いました(創2:16-17)。そして、どの動物も人間と同じように果実を食べて良いと(1:29-30)。もし禁断の果実がエバの愛を象徴しているのなら、他の果実は何を表すというのでしょうか?文氏は善と悪の木は理想的なエバを象徴していると言っています。もし彼女がその木から果実を食べたら理想的であるのでしょうか?エバは同じ果実をアダムにあげました。それはエバが姦淫のあとに、理想的であるということです。前にも直面したように、同時に罪人であり、聖人であるということです。そして園は理想的あり、非理想である。またはエバは非理想であるときにその果実をたべた、なぜなら、あの木から食べていないから。実在しない木には実はなりません。もしアダムとエバがのちに食べて良いがまだ食べてはいけないのに食べたというな聖書にそう書いているでしょう。神は我々を混乱させたり、だましたりしたくないのですから。
文氏は間の証拠をアダムとエバは性器を葉で隠していることが表していると書いています。なぜなら、彼らは性交に使う性器をはじているからであると。残念ながら、これは間違いであるだけでなく、まとがずれています。もうひとつ、エバが悪魔と性交したなら、なぜアダムと性交するまで恥じなかったのでしょう。創世記3:6-7に「エバはその実を取って食べ、またともにいた夫にも与えたので、彼も食べた。はっと気がついたら、二人ともはだかではありませんか。恥ずかしくてたまらなくなりました。なんとかしなければなりません。間に合わせに、イチジクの葉をつなぎ合わせ腰の周りを覆いました。」もしエバがアダムの手伝いであり、実を食べたのであれば、エバより年長で、知識のあるアダムも食べたからアダムの目が覚めるまで、エバは目がさめなかったというのは辻つまが合います。しかし、エバが性交し、その後アダムと性交するときには恥ずかしくて隠したいとはなりたちません。なぜ初めて性交するときに恥ずかしくて隠したいと思わなかったのでしょう。それにアダムの罪とはなんでしょう。妻と性交することは罪ではありません。いいですか、ここでアダムとエバが結婚していないという間違った思いに頼っているのです。(もう一度言いますが、聖書の創世記に9ヵ所彼らが結婚していたと書いています。)
そして性交の罪がエバに問われるなら、なぜ聖書に「アダムが罪を犯したとき、罪は全世界に入り込みました」(ローマ人5:12)とあるのでしょう。「エバ」ではなく。エバはアダムの手伝いで、もしアダムが果実を食べれいなかったら、エバは罪に問われなかったでしょう。しかし、エバが悪魔と性交したのであれば、すべて全く違う話になります。なぜなら、彼女の体をアダムと悪用したのですから。果実は悪用していません。夫との共犯でなければ、果実を食べることはそれほど大きな罪ではないでしょう。アダムとエバは一つの肉体を創りました。エバが罪を犯したとき、まだ二人の全身が罪を犯していない時に。
アダムとエバが不品行のために自分を恥じて隠していたのが真実であるなら、我々も同じ罪を犯すまで服を着ない方がいいのでは。まだ不品行を行えるほど年を取っていないのに、なぜ子供は服を着ていて、恥ずかしいという感情を持つのでしょうか。
ポイントは彼らは自分が恥ずかしかったのです。性器を隠したのはただの行動であると考えるのはxです。我々は神の偶像として創られたのです。エロヒム(אֱלֹהִ֑ים)という三位一体をモデルとして、身体、心、精神をもっています。
我々は気持ち、精神的、身体的に、自分を隠します。なぜおたがいの本当の気持ちを隠すのでしょう。なぜ、「愛しています」というのをためらうのでしょう。それは神の計画でしょうか。それとも自分を恥じることから自分をかくしているのでしょうか。恥じることが全身にひろがっているのです。神は我々が遠慮がちで恥じることを望んでいません。もし恥が性器だけに関係するなら、なぜほとんどの文化において、胸や、体もかくすのでしょう。嘘をつく口をかくすために口紅をぬり、マスクをしてみてはどうでしょう。この間違った解釈は意味がなく、強く人間の性質を誤解しています。
それから人間が堕落する原因が、性交である、なぜなら、強い欲望であるあるから、などというのは強い誤解である。性交が一番の誘惑ではありません。2004年のABC〈アメリカンブロードキャスティング〉の調査によると、30%の男性、66%女性は一日一回以上セックスに関して考えない。多くの人はセックスに関して、何日間も続けて考えないと表しました。あなたはこの論文の初めの13ページを読んでる時何度セックスについて考えましたか?多くはないでしょう。男性は女性と罪を犯せるが、男性は酒でも罪を犯せます。イエスが砂漠で断食している間に悪魔がイエスを誘惑した時、セックスは誘惑として、使われなかった、なぜなら他のものほど強い誘惑ではなかったからです。悪魔はまず、食べ物で誘惑しました(マタイ4:3)空腹の時に。次に無敵であること(4:6)。三つ目に最高の政治的力(4:8-9)で誘惑しました。力と頭脳(永遠の命同様)で悪魔がエバを誘惑したのです。「その実を食べたら、善と悪の見分けがつき、神様になっちまうもんだから、脅しをかけるなんてさ。」(創3:5)。エバがそのように華やかなものに騙されるのは全く難解ではない。他に説明の必要はない。「アダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神の言を犯したとは到底考えられないのである。」などというのは全くつじつまが合わない。死の危険にさらし、死に至りました。深く考えないで行動にで、後で後悔するという人はいませんか。何も行動しなくて、後で何を考えていたんだろうと思う人はいませんか。
さて文氏の他の両刀論法の返事ですが、「全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない」。返事は無慈悲ではないのです。アダムとエバが罪の後、生命の木の実を取ることは簡単にできたが、神が防止したのです。神が炎の剣でできなくしたのです。彼らの死を確実にするために。あの日、禁断の実が彼らを殺したのではありません。(しかし、身体は死に至りました。ですから実を食べて死にいたりましたが)(ローマ人8:10)。かれらは神にそむき、精神的に死に至りそして神の慈悲がきたのです。アダムとエバが堕落した後、神から離れました:壊す、堕落、不完璧、みじめ。神は良いから、神は同じく正当で慈悲深いのです。神は彼らを永遠の生命から離したのです。壊れた状態や神からの離脱に永遠にいることのないように。地獄は神との永遠の離脱である。天国は神との共同である。もし神がアダムとエバに生命の木の実を食べさせて、身体は永遠に生きていても精神的に死んでいたなら、彼らの存在は地球にいながら、地獄にいるようなものである。考えてください!アダムは永遠に汗水流して、土地を耕し、(3:19)、エバは夫に一生支配され子供を産む(3:16)ことが神の慈悲といえましょうか。それとも、神が的を得て彼らを殺したから、慈悲深いのでしょうか。神がノアの洪水時代、すべての人類を殺したとき、神は慈悲深く彼らの罪を終えたのです。何百年も罪を続けることになったでしょう。またひどくなるいっぽうだったでしょう。しばらく考えてください。
果実が本当の果実であることを否定し、文氏の支持をするとき、いつも「毒をおいて、子供にたべないようにと言いながら、食べさせて、死なせますか。いいえ。愛情のある親なら、いくら子供が従わなくとも、子供をしなせません。」まずこの質問は真実性にかけます。なぜなら、まずエデンの園に私は住んでいません。次に、人間である私がすることに関係しないからです。神は我々の小さい人間の脳によって、規制されないのです。イザヤ書55:8-9を読んでください。
「私の計画はお前たちの考え付く計画とはと違い、私の思いは、お前たちの思いと同じではない。天が地より高いように、私の道はお前たちの道より高く、私の思いはお前たちの思いより高い」
神は人間のように弱く、無知ではない。神は我々のようであるというのは真実ではない。アダムとエバが置かれた状況と我々が我々の子供と直目している問題が同じであるというのは事実ではない。
罪が死をもたらす。神はこれをもたらすのではありません(ヤコブ1:13)。神に悪や悪の行動の責任はない。我々が罪を犯したとき、死を選ぶのである。神が死を招く誘惑を放置すると考えることは難しくありません。神を通して人生があり、罪をとおして、死がある。選択はいたって単純、常に単純である。しかし、神の偉大な計画をみたすための、選択ではある。はい。神の意志なしでは、何も起こらないのです。(民数記23:19、詩編22:11、箴言19:21、21:30、イザヤ書40:21-22、46:10,55:10-11、哀歌3:37、マタイ6:10、アクツ2:23、エペソ人1:11、ヤコブ4:13-15)。
神の許しなくで悪魔でさえ神の使いヨブに迷惑をかけることはできない(ヨブ1:12)。神は弱く力がないのではない。計画なしには行動しない。神が起こさせることは神の完璧な計画の実行のためにおこらなければならないことである。我々人間が理解できない、また答えを聞きたくないということが、神が間違いであるということではない。もう一度言いますが、あなたがその答えが気に入らなくとも、その答えが間違いであるということではない。最後の通告だと思ってください。神には、完璧な計画があり、我々が受理するのに手間取っている、でなければ、神が神として、計画者として、失敗者である。あなたにとってこれを信じるのは難しいでしょう。しかし、心を開いてください。
もしすべてが、神の意志なしで起こっていたなら、堕落などないのです。神が無知か、おかしいか、悪か弱くないかぎり。文氏はアダムとエバの堕落は神の意志ではないと書いていますが、神が導いたのです。そうでないと神自身の創作の原理を違反しているのです(堕落6.1)。ではしかし、なぜ神の創作の原理がこの行動を起こしたのでしょう。もし神がルシファーが堕落すると知っていたなら、なぜこの世をそうさせるように創ったのでしょう。ルシファーを創らなればまたはルシファーの堕落を食い止めることだけはできた。アダムとエバの創造もルシファーを大人にし堕落しなくてすむまで待てたでしょう。もし神が文氏の言うように、万能者で全知(堕落6)であれば、神がこのような天使を創る必要はない。または天使が神の創造を反逆しダメにすると知っていながら、この天使をそのようにつくる必要はない。ではなぜルシファーを人間にしなかったのでしょう。彼を園において、エバを彼のあばらから創らなかったのでしょう。ルシファーはエバを誘惑できなかったのです、もしエバが妻であったなら。この可能性はなしにしても、神は違うましな天使を創ったはずです。文氏は神は宇宙やすべてのものを愛から創造したといっています。しかし、なぜ、上記のようなのものを創ったかは説明していません。神はミカエルという堕落しない天使を創りました。ならば堕落しない良いルシファーという天使や、ほかのものを創ることができたでしょう。もし神がルシファーを創造できるぐらい愛することができるら、ほかに、Xさんや、Yさんも創作できるぐらいあいすることができるでしょう。もしあなたが、神がこのような別の選択が出来なかったというのであれば、そのものを神と呼べるでしょうか。鎖でくくられた神など神ではありません。文氏の神は間違った創造原理を持つか、間違った性質を持っています。
堕落の陰にある動機は愛ではない
この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったのである(人間堕落3.1)。
文氏は誠の自由が神を喜ばす行動だけを起こさせると信じています。ならば自由が堕落を招いたのではない。文氏は非原理的な愛(これは実は憎悪です:愛は原理である。神は愛である(1ヨハネ4:16))は自由を圧倒し、罪の元祖であると信じています。もしこれが事実であるなら、我々には自由な意思がないという事です。なぜなら、良いことをしようと思っても、愛に関するものであればすべて、放棄し、神をうらぎることになるのです。最後にこれはアダムとエバが潔白であった、なぜなら悪魔が神の愛の原理から、逸脱させたのですから。彼らのせいではない。文氏はなぜかアダムとエバが彼らの罪の潔白被害者であると故意にではなく信じているのです。もし彼らが文氏の言うような「完成を達成」に至ったなら、「またいかなる力も神の絶対的な夫婦の愛を断ち切ることはできないから、彼らは決して堕落するはずはなかった」(堕落3.3)。私は喜んで評価します、もし評価しなければいけないのであれば。そして、真の自由は神らしいである(2コリント3:17)というのは正しいといいます。しかし、真実の解放、罪からの解放、地球上のことからの解放、身体からの解放、罪への自由の解放。罪を犯せることは自由ですが、しかし、罪を犯すことは真の自由ではない。なぜなら罪は罪のどれいであるからです(2ペトロ2:19)。ですから、我々はガラテヤ人5:13でいわれています。「それは悪を行うための自由うではなく、互いに愛しあい、支えあうための自由です」。違う言葉でいうなら、罪のどれになるため自由を使うな。自由を使って奴隷に身を売る事は可能です。それが、アダムとエバがしたことです。彼らが学んだことは奴隷になることは奴隷から出ることより実に簡単であるということです。
多くのキリスト教信者は今日にいたるまで、アダムとエバがとって食べて、堕落したという善悪を知る木の果実が文字通り、何かの木の果実であると信じてきました。しかし、そうであるなら、人間の父母としていし給う神が、なぜのその子女達がとって食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましく」おつくりになり(創3.6)彼らがたやすく取って食べられるところに置かれたのであろうか。かつてイエスは、「口に入るものは人を汚すことはない。かえって口からでるものが人を汚すのである」といわれました。まして、食物がいかにして、人間を堕落させることがあろうか(堕落1.1)。
前にも私が言ったように文氏の教理の解説は彼の考えに合うように聖書の書き換えである。悪意をもってか間違ったのか理解できません。結果はおなじです。それでは彼のマタイ15:11の引用です。間違った内容で引用しています。「というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、あやまりは心の中からでてくるのであって、これらのものが人を汚すのでる。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのはない」(マタイ15:19-20)。これはユダヤ法を言ってるいのでしょう。食物や清潔度についてであり、禁断の果実とはまったく関係ないです。ユダヤの伝統についてはパルピ講談でよく説明しています。
ユダヤの法学者はある種の肉は魂を汚しており、神の目に忌まわしくうつると教えていました。これはきれいな食物、きれいでない食物を尊重する法律の乱用である。汚染か罪悪感がつのるのは、肉の性質ではなく、教えに違反したものを食べることです。これは違反であり、魂を揺るがすほどの食物のことではありません。
アダムとエバが堕落した理由は果実食べたという違反である。これは心からきたものであり、果実を食べた行動ではない。ここで、この果実には特性がありました。食べた者に善と悪の元来の知識を与えるという。そして、だから、神はそれを食べることを禁じたのです。しかし、その実が存在することは罪ではありません。神は悪の実を良い園に置きません。その実を食べたことが罪なのです。ですから、アダムがその実を食べたから堕落した、というのは正しいですが、果実を嚙み砕く行動ではありません。それよりも、神にだめだと言われ反抗したことです。イエスは「どんな食べ物も人を汚すことはない」といったのではありません。「口に入るものは人を汚すことはない」といったのです。
そのほかに、この講論のなかで文氏が木がそこにあるということも理解していないと見受けられます。その理由は罪の選択を与えることである。アダムとエバが真に自由でないという選択なしに。もし誘惑がなければ自由がないということです。善と悪を選ぶ選択がなければ自由という意味がありません。奴隷出ない限り。もし善だけしか選べないなら、真の心や愛から選んでいるのではありません。他に選択がないからです。独房に監禁されている囚人が、一人なので悪事を働くことができないといって、この人がいい人になるのでしょうか。
慈悲のある神は結論をできるだけ簡単にしています。神が禁止した唯一の行動はある果実を取る事だけでした。もしアダムが食べない選択をしていれば、助かったのです。これは我々が向かいあうイエスの救世に合う結論に反映されています。我々がもつ禁止令は憎悪です。我々の持つ戒律は愛です。もしイエスを選ぶなら、我々は救われます。選択はいたって単純です。イエスが生命の新しい木(もちろんこれは比ゆです。このことは後に話しましょう)で、もしイエスを選ぶなら、生命を選んでいるのです。もしわれわれが自分を選ぶなら、死を選んでいるのです。
しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。
ここで、神は「父母」ではありません。神は父です。しかし、この質問の返事は「はい、置かれるでしょう」です。聖書には置いたと書いています。こう考えてください。まず悪魔がエバに言ったことは神の言葉の正確さをうたがう質問でした。「なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか」(創3:1)。悪魔は神の言葉をしっかり、知っていたのです。しかし、彼の攻撃の手法は簡単で単純に見える質問をすることでした。エバに神の言葉をもう一度考えさせる目的でこうしたのです。悪魔が侵略するにはそれだけが必要だったのです。エバの考え直しを神の言葉を間違えて解釈するきっかけに使ったのです。彼女をだまし、神の言葉えはなく自分の願いをかなえるために。彼は彼女にこう言ったのです。「これが聖書が本当に言ってることです。果実を食べなさい」。これを質問するのはいたいのですが、文氏の質問とどこが違いますか。神がエバにとって魅力的な果実のなる木を創ったと言っているのを、文氏はあなたにそれを疑うように質問しているのです。もしあなたが、果実を愛やセックスのシンボルと考えるなら、神の言葉と比例し、悪魔があなたをだましたのです。神の言葉は質問ではありません。答えです。もちろん頭のいい悪魔の質問と間違った答えには少々の真実がありますが。悪魔がエバに言いました「神のように善悪を知るものとなる」(創3:5)。そして、食べた後、神は自分にこう言いました「人間は、我々と同じように、善悪の区別が分かるようになってしまった」(3:22)。悪魔は、部分的に正しかったのですから、彼の嘘は簡単に信じられただけでなく、後に正しく写ったのです。原理講論の中にもたくさん正しいことはあります。
文氏に公平になるように私はこの質問に真の言葉で答えましょう。はい。神は魅力的な果実を創りました。もし罪に魅力がないなら、我々は善行から否定するのではなく、便利さからで否定するのです。しかし、身体に喜びをもたらすことを否定し、審判や難関に勝ったなら、我々は経験や、願いを築く(ローマ人5:3-4)。もしあなたがすでに、お金もちで、お金を盗みたいと思わないことが美徳であるとは言えません。何か欲しいことを神のために否定することが徳が高いのです(ヤコブ1:12)。二つ目の質問ですが、(彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか)、答えはまた「はい」です。もしエバが果実が食べたくて、取ろうとしたが、届かずに食べなかったとして、公正といえますか。もしあなたが、車を盗もうとして、あけられなかったら、聖人ですか。もう一度、エバの罪は心から来たのです。手からではありません。すべての悪の行動は悪の考えや、心からきていて、起こっています。もし神が果実を100メートル上空においても罪を減らすことはできません。神は簡単な結論をだしたのでアダムとエバの意図がはっきりしたのです。
また生命の木は園の中心に善と悪の木とともにありました。何メートルか歩いて生命の木から実をとったほうが簡単ではないでしょうか。これは我々自身の選択をあらわしています。自分自身で選ぶ簡単な選択です。神を選ぶこれも単純な選択です。我々はエバと同じような決定に毎日直面しているのです。
あなたのために、なぜ神がアダムとエバに善と悪を知って、欲しくなかったを説明しましょう。理由は神との完璧な関係には神を完全に信じることです。ユダヤ人はバアルという異教の神をよく信仰し、必要な時のみ主にすがりました。神は神だけを慕ってほしかったのです。もし善と悪をしらなければ常に神に導きをたずねます。神は善にだけ導いてくれます。それは完璧です。神は天の父ですから、理想的な関係は敬神な子供と真の神であります。神が我々に無知でいろというのではありません。神は我々に自分主義の身勝手になってほしくないのです。彼らが、果実を食べたとき、問題は神の善と悪の知識を与える導きに背くだけでなく、してはいけないということを避け自分が自分の神になることを選んだのです。ですから、果実を食べることにはいくつかの重要な層があるのです。(私はこのことを神の言葉を変えることなく学びました。)
生命の木であるアダム
しかも、原罪をもつ堕落人間は、彼ら自らの力をもってしては、創造理想を完成した生命の木になることはできない。それゆえ、堕落人間が生命の木となるためには、創造理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られ、すべての人をして彼に接がしめ、一つになるようにしなければならない。… いかにイエスを熱心に信ずる父母であるとしても、また再び贖罪を受けなければならない罪悪の子女を生まなければならなくなったのである。このような事実から見るとき、いかに信仰の篤い信徒といえども、アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお取り除くことができないままに、これをまたそのまま子孫へと遺伝している。
(人間堕落1.1.1)。
これは致命的な神の言葉の誤解である。救いが罪の本性の未来の子孫を自動的に清めるというのは正しくない。この理由はイエスの救世がなぜか不完全なのではなく十分でないというのではありません。確かに救いは計り知れないほどすばらしい。遺伝には二つ理由があります。一つは、アダムのせいで、けがれている塵で我々が創られている(創3:17)。そしてそれゆえ、アダムの子孫と同じようにけがれている。そしてこの我々が知る地球が存在するかぎり、この原罪は除かれない(2ペトロ3:10)。そして、再生されなければならない(3:13)。唯一、子宮から罪をもたずにうまれたものはイエスのみである。なぜなら、彼には人間の父親がいないからである。罪がこの世に入ってきたのは人間の男のせいです(ローマ人5:12)。ですからすべての父親は彼の罪の本性を父から子へと譲るのです。しかし、イエスが無原罪の御宿りであるのは、人間の父親の代わりに神聖な魂の力でつくられたからで神聖で完全であるために純粋の中で創られたのです。イエスはアダムの原罪を受け継いでいません。なぜなら、その原罪は彼の父親から移されていないからです。
二つ目の理由は、律法の原罪による我々は罪のない子を生むことができない。ポールがローマ人5:13でこう説明しています、「律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである」。しかし、「神様のおきては、私たちに、自分が罪人であることを自覚させてくれるだけです」(ローマ人3:20)。そして、「律法が入り込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(5:20)。我々は律法から自由になるうようには創られていません。反対に律法の奴隷です。イエスが貼り付けにされたとき、我々の代表で律法の罪を受け継いだのです(ガラテヤ人3:13)。それは、イエスの貼り付けにされるという初めからの計画であり、であるから、彼が我々を律法から自由にしてくれる。愛が律法遂行であると書かれています(ローマ人13:10)。イエスは愛である(1ヨハネ4:16)。そして、犠牲よりもすばらしい、愛はない(ヨハネ15:13)。我々個人がイエスキリストの恵みを受け取るための決意をしなければいけません。「私は、神に生きるために、律法によって律法に死んだ」(ガラテヤ2:19)。そうすれば、我々は自由になれます。すべてのものは、生後我々の罪の自覚の中、恵みを受ける選択をすべきです。この理由により、キリスト教の父を持つ子はどれだけ信仰心があろうと罪の本性がなく生まれることはないでしょう。またですが、聖書にすでにすべての答えがあると言えます。あなたが答えを理解しないという理由や、信じたくないという理由が、真実性を減少させるということはありません。重力を信じないことは、転落から身を守ることができないのです。
他に、創造理想を完成したアダムが生命の木であるという考えにはより深く悲惨な結果があります。聖書にアダムは果実を食べて永遠に生きると書いてあります。もしこれを文字通り取ると、神は死のない世界を求め、アダムとエバが不死身になるための道具を用意したという意味です。もし木が象徴であるなら、問題があります。どのようにアダムは永遠に生きるのでしょう。アダムは禁断の果実食べるまでは不死身であったとは言わないでください。神ははっきりとこう言いました「この先、万一、「命の木」にまで手を出し、永遠に生きるようにでもなったら大変だ」(創3:22)。神はそして炎の剣をかざして、生命の木に届くことを遮った。という意味には、アダムとエバは死ぬべきであるということです。もし木が文字通りであれば、アダムとエバの身体は生命の木の果実の復元力により健康で完全に保たれるという意味です。もし木が象徴であるなら、この二人はどのようにして、不死身になるのでしょう。これは完璧な世界は死と悲しみがあるという事なのでしょうか。それともここでいう木は文字通りの木であるということでしょうか。答えは明白です。
イエスキリストは神の子であるだけでなく、神である
アダムが生命の木ではないということから、彼は一番目のイエスではない。(イエスは最後のアダムである。しかし、これは後程説明します。)アダムは人間であっただけが、イエスは神の子である、三位一体の二番目の人物である。神は三位一体である。「私達の神様(ヘボル語:ヤーヱ [יְהוָ֥ה ])は、主(ヘボル語:エロヒム [אֱלֹהֵ֖ינוּ])お一人です」(申命記6:4ヘボㇽ語、申命記6:4日本語)。他の言葉で言うと、「我々の神、三位一体は神一人です」。彼は神である父、神である息子、神である聖霊である。イエスは神である息子神の生き言葉である。ヨハネ1でヨハネがこう書いています。
1初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。3 すべてのものは、これによってできた。… 4この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。… 14そして言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
無神経に言えば、「イエスは神ではない」というのは悪の嘘である。悪魔は我々に一生奴隷でいてほしいとともに神から離したいのです。ですから、悪魔にとって多くの者がイエスの神性を否定することは好運なことです。私は、他の問題なら我慢できます(結局、悪魔がアダムに嫉妬したために、誰かが悪魔を間違って信じ、堕落することがどれほど影響するでしょうか)。でも、この問題に関してはがまんできませんし、戦うことを躊躇しません。これはすべての存在するものの中で最も重要な問題である。もしあなたに、イエスがいなければあなたは何も持っていません(ヨハネ6:40、8:24、14:6、1ヨハネ2:23)。ですからこのことをただすのは必須なのです。
イエスは我々の罪のために死に送られました、それが、彼の真の元の目的であった(マタイ26:53-54、ヨハネ17:4、18:37、19:36、使徒の働き2:23、べブル人12:2)。イエスの救世は二流の行動や失敗、一部成功ではありません。それは完全な成功で地球に来たすべての理由です。神の子が人間の女性と性交することや、罪のない子を生ませるなどどいうことは極めて不快で馬鹿げたことです。救世は完了し (ヨハネ19:30)、文鮮明が再臨の主であるなどという、必要性はないのです。第二の救世主が助けるなどなく、イエスを通して、そしてイエスのみにより、我々は父に会えるのです。(ヨハネ14:6)。他の誰でもなく(マルク13:22、使徒4:12、1ヨハネ5:11-12)。神に届く他の道はないのです。イエスのみが道です。第二の救世といえば、そう簡単に救世主の立場として、扱われることは悲劇です。文氏は女性の救世主が対象的に務めるべきであると言っています、そして、そのものが、神になる。これは書くにも至らない理由で、間違いです。
そのほかに、イエスはこう言っています「多くの者がわたしの名を名乗って、現れ「自分がキリストだ」と言って、多くの者を惑わすであろう」(マタイ24:5)。キリストは同じ章で弟子たちに、再臨のために起こることを話しています。これらのことはまだ起こっていませんので、再臨はまだ起こっていません。文氏や地球上のどの者も再臨者ではありません。文氏が「生命の木」は普通の人間であると信じている以上、真の救世主について間違った結論をだしていくでしょう。彼はこう言っています
「神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えらて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心と言えるが、体は心それ自体ではない」(キリストロジー2.3)。
神は父としての神、息子としての神の関係が心と体の関係に相似しているということは正しい。結局我々は神の彫像により三部をもつように創られた。神にとって、父は心、聖霊は魂、イエスの身体が神の体である。三つの部分:心、身体、魂がある。しかし、イエスは神の身体なので神ではないというのは子供じみている。もし誰かがあなたも叩いた時、「あーいまわたしの身体を叩きましたね、私の実の物体的伴侶のしかし実の私ではない」などと言いますか。食べる時、他人の身体や、あなたの魂と独立した違う臓器に栄養を与えますか。いいえ。あなたの身体、あなたの心、あなたの魂があなたなのです。フィリピ人2:6-7にイエスは神ですが、人間の男になったと言っています。そして、申命記6:4で「私たちの神様は主おひとりです」と思い起こしています。エロヒム(אֱלֹהִ֑ים)は三位一体です。イエスは神である、なぜなら、イエスを持つ者は天の父を持つ者であるから。(1ヨハネ2:23)。もしイエスが神でなければ誰が第二の三位一体になるのでしょうか。イエスは弟子にこういいました「すべての国の人びとを私の弟子とし、かれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい」(マタイ28:19)。イエスは父と子と聖霊の三つを訳あって一緒にしたのです。イエスはパリサイ人にこう言いました「アブラハムの生まれる前から私はいるのである」(ヨハネ8:58)。イエスは自分が神であると何度か言っています(マルコ2:28、ヨハネ6:51、8:19、8:24、8:28、10:30、10:33、17:5)。へブルの手紙にはっきりと、人々の犠牲になるために神は肉体でできていると、そして、天使さえイエスを崇拝した(へブル人1:6、2:14、2:17)。ヤーヱ以外の神を崇拝することは罪であるのだから、イエスが神であるということになります。
ヱ
文氏は聖書を熱心に勉強したため、外れるほどになったと言われてます。注釈と擦り切れたページでうまっていたと。もしそれが真実であれば、なぜイエスが神ではないと書けるのでしょう。私は人類を完璧な世界にしたいと願うような、高貴な人が真実を熱心に探し、目の前の真実を無視しているということに悲しみます。本当に聖書を読んだのでしょうか。それとも自分の信念を正当化するために聖書から節を探していただけなのでしょうか。原理講論の中のいくつかの間違いはばからしい間違いですむでしょう。しかし、キリスト論は故意の冒涜的な振る舞いであろう。事故的に(誤って)、前の章で16もの節を無視することや、聖書の中から何十ものよく似た節を無視することは到底無理です。これは故意の間違いと言わざる負えないでしょう。御覧なさい、真実の答えは聖書の中にもうあるのです。そこにあるのです。聖書を読んで、受け入れなければいけません。
聖書はただ単に象徴の本ではない
私はこの段落をここまで待ちました、なぜなら、この論文の中にずっと、聖書の論理的な誤信にもとづく、権威に訴える論証を避けるためにです。私は聖書の正確真実を確かめるために、他の方法を使ってきました。それは、聖書にもとづく、証拠や、創世記の中の証明された論理によるものです。「私が、そう理解したいから、そうである」また「私がそういったからである」ではありません。なぜなら、象徴的な解釈は聖書的にとか論理的にとか何々的に、というのは意味をなさないからです。私はいままで、文字通りの創世記を中心に書いてきましたが、今から全体的に、文字通りの聖書を書いていきます。
文氏の宗教(カルト教などど呼ばずに礼儀正しく呼び)は、象徴的に聖書を不正表示しているか、無視しているかに基づいています。文氏は聖書のくだりを自分の信念にあわないために否定し、元とまったく反対の理解をし、文脈から離し、文脈を無視して、へブル語、文化、歴史などを勉強していません。原理講論は沢山の信実が書かれています、そして、文氏が聖書を真実と受け入れたときは大体いいことが書かれています。この本には、真実のほかは嘘がたくさんあり、基礎的な神の言葉を理解している者には異議を唱えるでしょう。しかし人間は心が脳を追い超させるのです。そして、最悪なことは、この論文は、原理講論の「人間堕落」の章に書かれていることの内容だけです。残りの本の部分を合わせるとどれだけになるのでしょう。さてもとに戻ります。
ほんのまれな例を除いて、聖書は文字通りに受け取られなければなりません。聖書は文字通りでなければならない。「全体が神様の霊感によって書かれた聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをよく教えてくれます。 また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行なう力を与えてくれます」(2ティモシー3:16)。もともとの意味を持たない聖書の言葉でどのように他人をただすことができますか。自分の想像の思い付きで他人をただすことはできません。聖書の預言者の言葉は霊により、与えられるのであって、個人の解釈によるものではない(2ペテロ1:20-21)。違うものが聖書を違うように解釈するからと言って、するべきではない。聖書は書かれたとおりに読まれるようにあると言っています。
私を誤理解しないでください。スピーチと歴史には違いがあります。イエスが比ゆ文的に話しています。「この神殿をこわしなさい。三日で立て直して見せましょう」といいました(ヨハネ2:19)。イエスは彼の身体について比ゆ的に話していたのです。しかし、全体的には、節はこう言っています。「イエスはお答えになりました。「わかりました、この神殿をこわしなさい。三日で立て直して見せましょう。」」 この節は文字通りでしょうか。イエスは本当にこの言葉を言っています。聖書はイエスの修飾文的な話をそのまま文字通りに引用しています。聖書にはこのような説が存在します。ソロモン王が箴言10:11でこう言っています。「正しい者の口は命の泉である。悪しき者の口は暴虐を隠す」かれは比ゆ的に書いています。が箴言1:1には「ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言」そして確かに、これらは文字通りソロモンの箴言です。
私の言いたい意味をわかっていただけますか。誰かが自分の気持ちを書いたり話したりするときに、比ゆ的に自分の気持ちから書いたり話したりしているように現れます。しかし、創世記の本はモーゼスの気持ちから書かれていません。彼は歴史の事実を物語っているのです。彼はソロモンの王のように手紙を書いているのではありません。もしそうなら、聖書には彼の気持ちを書いているという事でしょう。前の二つの例のように。聖書にはイエスは比ゆ的に話していると言っています。聖書はソロモンは箴言を書いていると言っています。創世記も「モーゼスの物語」などと比ゆ的な話と分けるために呼ぶでしょう。残された唯一の選択はエデンの園の話は文字通りにされるべきであるということです。
私はあなたが、残りの聖書を外挿できると願います。聖書も文字通読むという事はどういう意味でしょうか。歴史の本は言葉のあやとして使われないということではありません。出エジプト記に神がファラオ(エジプトの王)の心を硬く下とき、ファラオの心臓を石灰化したとか、動脈硬化で心臓を硬くしたという意味でしょうか。もちろん違います。しかし比ゆ表現は韻節の意味を破棄しません。聖書は人間に読まれるようにできており、人間は比ゆ的表現を理解します。しかし、何重もの意味はどうでしょう。聖書の節が文字通りであり、寓話的な意味を持つことができるでしょうか。もちろんです。アダムとエバがしてはいけないことをし、神に隠され、他人のせいにした。これはあなたや私にとって象徴的です。人間だれもが何か悪いことをしたら、他人のせいにします。われわれはアダムとエバによって、自分たちを象徴的にみていると考えたほうがいいでしょう。だからと言って、アダムとエバが象徴だけの存在であるということではありません。彼らは実に存在したのです。彼らを誘惑した、蛇はあきらかに本物の蛇であった。もちろん悪魔によって生かされたのです。だれもただのへびであったとは言わないでしょう。へびは話せません。しかし悪魔によって生かされたへびだからといって本物ではないという意味ではありません。それは誤った二分法です。聖書が象徴的に受け取られたとしても、文字通りに硬く根付くものでなければいけません。そうでなけば、聖書は自分の好きなようにどうにでもなります。どんな罪も簡単に正しいと理由づけできます。そして、実にほとんどの人がしています。
私のここに至る意図がおわかりいただけたら幸いです。ここにきて、聖書は象徴的であると言えます。創世記は象徴的であるという本は簡単に書けます。しかしだからと言って象徴であるという意味ではありません。どんな本でも書くことはできるのです。神本人以外に神の言葉の権利はありません。そして、神は我々が聖書を変えたり、無視するために聖書を与えてくださったのではありません。そのうえ、どうすれば原理講論を文字通り受け止めることができるのでしょう。もし私が、文氏の書いたことをすべて、過小評価し、それは象徴であるといい、私が彼は本当はこういっているのであると書き直したらどう思いますか。私の察するにはあなたもわたしが原理講論をべんきょうしているのと同じようにいら立つでしょう。
この失敗から学ぶ最も素晴らし教訓はわたしの気に入った節にあります(箴言3:5)「徹底的に神に頼る事です。絶対に自分を頼ってはいけません」。もし聖書の中に何か気に入らないことがあったら、選択に直面しているのです。神に伺い、知恵をいただくか(ヤコブ1:5)、自分を選んで自分の好きなことを信じるかです。もし後者を選ぶなら確かに次に書かれているように、自分に有利になるでしょう「人の道は自分の目には正しく見える、しかし、主は人の心を図られる」(箴言21:2)。ここにある選択はアダムとエバが直面したのと同じです。神を選ぶか、自分を選ぶかです。アウグスティネスはかつて、こう書きました、「もしあなたが、ゴスペルにおいて好きなことだけを信じ、嫌いなことを否定するなら、それはゴスペルを信じなく、自分自身を信じるんです」。
文氏が自分自身を信じているのは、哀れです。彼の人生をとおして、他人にほどこした奉仕は沢山あります、しかし、考えてください、信仰者を永遠の死という悲惨なことに導かなければ、どれほど良いことを施せるか。地獄の中で彼は信者になんと言うのでしょう。地獄は取り戻せません。一度いったら、悲しみの中に永遠にとどまるのです(ダニエル12:2、マタイ13:50、25:46)。このエッセイの出だしのところで私は良い人生は何がいいかを知っていることだと書きました。あなたにとって野菜はいいものです。と知る事が重要です。しかし、有毒なものを拒否することも同様に重要です。あなたにとって、誰かが、たばこは良いものだと言うことは良くないのです。たばこを吸うことのない人の健康を壊すことになるからです。まだ時間があり間に正しい決意をしてください。
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このエッセイをあなたに渡すことはCARP として、難しいことでした、あなたの信念はあなたにとって、大切なものだと思います。あなたの信念を壊すというのが私の目的ではありません。真の神、真の天の父に改心してほしいのです。CARPの一員としては好きです。過去6カ月のかかわりでこれほどの温かさややさしさを感じました。しかし、より良いものにできたかもしれません。あなたは他の人に一番いいものをもってもらいたいでしょう。考えてみてください。もしあなたが、間違った教えを信じなければ、どれほど、他のひとにより良いことができるでしょう。CARPと関連機関は人々の価値観や将来をきづかせるために手伝うことに専念するものです。これはいいことです。あなたは他の人のじんせいを向上することを手伝っているのです。これもいいことです。しかし、間違った教えを撒くことは悪です。これは厳しいことをいうようですが、言わなければいけないことです。神をゆがんでみることはだれにとってもよくないことです。そして原理講論に討論することは、本当は難しいことです。間違いをただすことは良いことですが、ゆがんだ理解を変えることが一番大切です。もっとも間違いを起こさせるからです。
姿勢を変えることが必要です。でなければ、世界中の真実の確認が無駄になります。これらの長は神は人間のように完璧ではないという姿勢です。一神は弱く世界に変化をもたらしたいが、不可能であり、自暴自棄である。そして、神は我々が必要で、よりすがり、我々の手伝いなしでは完璧を復元することができない。神の道を振る舞うことはむずかしいが、神を我々のレベルに引き落とすことは簡単である。それはまったく文鮮明氏や他の者がしたことである。(ローマ人1:23)。神に対するこのような姿勢を変えない限り、あなたの世界観をねじってしまうでしょう。たとえばここから発生している観念、第二の救世主(自称文鮮明)が必要である。統一教会はこう教えています。神の言葉には三つのテスタメントがはいっていなければいけないと教えています。旧約聖書が新約聖書に改定されたように、新約聖書も原理講に改定されなけれならないと。1コリント人15:45によると、イエスは最後のアダムであることが明らかである。文氏であっても、第三のアダムであることは不可能です。そして、このような考えはなぜ旧約聖書が新約聖書に改定されたの理解をしそこなるのです。へブル人7がどのようにイエスが聖書を改定したか、そして、なぜもう二度と改定されてはならないか説明しています。また言いますが、すべての答えは聖書に書いてあるのです。読めばいいだけです。
変える必要がある、態度の変更を可能にするために、私はここから始めます。聖書はすでに完璧です。聖書は改定される必要がありません。再読される必要はあります。愛というのは、あなたが聞き心地がいいからすきなものだけを信じるという意味ではありません。そして、統一教会の教条には沢山人間の耳に聞き心地のいいものがあります。しかし愛というのは、あなたが、欲しいものをあたえるのではありません。愛というのは神にささげるものです。一度あなたが、神を信じることを学び神の言葉を理解した時、なぜこれらの魅力的なことが悪なのか理解することができるでしょう。しかし、あなたがこれを理解することを選ばないなら、あなたは便利な信仰を持つことになるのです。
聖書を読み理解することが、もっとも大切です。予告なしに、忍びよる間違いに気をつけてください。聖書にいわれなくても、悪魔の天使ルシファー;であることを受け入れましょう。イザヤ14にイスラエルの子供はバビロン王に陳情するために、悲しみの歌をおしえられました。そして、この悲しみの歌は大げさに王を明けの明星(朝の星)と呼びます(14:12)。その翻訳はルシファー(Lucifer)です。ラテン語で「光の担い手」、そして、悲しみの歌は王を表しています。よく(間違って)罪が似ていることより、悪魔のことと間違えられます。この理由により、悪魔の元の名をルシファーと思うのです。可能性はありますが、「ひろし」や「たつや」となる可能性があるかもしれません。さて考えてください。もしこの間違いがとるにたらないものなのかもしれないが、議論されないまま、我々の心に入ってき、どれほど、より多くの間違いを存在させるのか。あなたはイエスが12月25日生まれだと間違って信じますか。気をつけてください。神の言葉の正しい理解いがにあなたの信念を導かせないでください。そして、正確さを強調します。聖書がいろいろな道に翻訳されているからといって、そうなるべきであるというわけではありません(2ペトロ1:20-21)。私が何を信じようとあなたが、何を信じようとどうでも重要ではない 。何が真実か、を大切に思います。「キリスト教者のあなたには信じることは、難しいでしょうが」という言葉には聞き飽きました。私にとって、難しいことはありません。ただしいから信じるか間違いだから信じないかというだけです。私は自分の信じていることが間違いであると気づいたら信じるのをやめます。そして、他の人にもそうして欲しいのです。ここにつけたリンクをクリックしてもらえば私が載せた、すべての韻文や聖書の節を見ることができます。そして、Biblehubはいろいろな英語の訳あり、解説とヘブル語とギリシャ語の原文と同じように。残念ながら、日本語サイトはありません。いつかできることをきたいします。原理講論もいくつか載せています。私は精密な調査を恐れていません。事実、それを要求します。
私はもっと長く、深く書くことができますが、すでに45ページも書いているのでここでまとめたいと思います。神がこの論文を使って私をとおして、あなたの心に話してくれることを願います。聖書は何年もの異端に生き残り、勝利を得ています。グノーシス主義、イスラム教、モルモン教、クリスチャンサイエンス、から生き残りました。もちろん卑怯で傲慢な気持ちでいってるのではありません。だれかが、「これは聖書が真に言ってることでしょう」と聞きに来るような意味です。これはあたらしいことではありません。6000年前に蛇がしたことです。ソロモン王が「先にあったことは、またのちにもなされる。日の下には新しいものはない」(伝道の書1:9)。私にできることは神に奉仕することです。あなたも一緒に参加してくれることを願います。「そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。」